「良い人」ほど曲者。注意しなさい。・・・というメッセージを受け取ったので。皆さんにシェアします。
昭和的価値観での「良い人」像が、今後はもう機能しないそうです。
ちなみに、昭和的価値観に基づいた「良い人」像とは、
「素直で良い子」の場合
- 人の言いなりになって行動する
- 自分の意見を言わない
- 自分より他人の都合を優先する
- 人の気持ちをくみ取って何でもやってあげる
- 決して人前に出ることをしない
- 目立つことを怖がり、真面目で大人しい
- 犠牲精神を発揮する
- 我慢強くてよく辛抱する
- いつも明るく振る舞う
- 無理をして自分を押し殺してでも他人を立てる
- 強引に世間の価値観を押しつけて、人を自分の思い通りに矯正しようとする
- 仕切りたがる
- 頼まれてもいないのに人のことに首を突っ込む
- 自分のことを差し置いて、他人の世話ばかりする
・・・こんな人たちです。
昔の価値観だと「素直で良い子」だとか「頑張り屋で辛抱強い」とか「親切で世話焼き」とか言われて、それなりに「良い人」だと世間から受け入れられ認められる存在なのですが、これからは、もうこういうパターンは「良い人」として通用しなくなるようです。
おそらく、昔の価値観で生きている人たちは、上記のような姿を「良い人の証」だと思っていて、それを一生懸命にしてきたと思います。受ける側も、相手の勢いに押し切られて、ついつい相手に歩調を合わせて無理して、上記のような態度や関わり方を受け入れてしまったこと、何度もありませんか?皆さんの周囲にも、こんな感じの人たち、結構いたと思います。
こういう人たちは、「あなたのため」とか「人のため」「社会のため」と言いながら、本当は「自分のため」(自分のエゴを満たすため)にやっているケースがほとんどです。そもそも「自分のエゴ」すら自覚していなくて、自分自身のことも何も分かっていません。自分が空っぽなのです。自分の感情の起伏が「自分の心」だと思い込んでいて、アップダウンする感情のままに生きています。自分が空っぽのところに、上記のような行動を「良いこと」だとしつこく刷り込まれて育ってきたので、その刷り込みの通りに行動して生きることが当たり前・・という人たちです。
昔は、「人のため」「世の中のため」という名目で、自分を滅して奉公することが美徳でしたが、それを人に要求すれば、それはエゴです。また、自分の言動にエゴを添付して、自分のエゴを他人に押しつけること・・・。←それを、「親切」「思いやり」だと勘違いしている人が多いです。この勘違い&エゴの押しつけが、人を苦しめ悩ませるのです。
「あなたのため」と言われれば、人は断りづらくなるものです。直感的に「嫌悪感」や「違和感」を感じても、「人の好意や親切は、感謝して素直に受け取ることが礼儀だ」と刷り込まれているので、エゴを押しつけられても断ることが出来ず、「感謝して素直に受け取らなくてはいけない」と思ってしまいます。
エゴを押しつけてくる人たちは、相手の「親切にしてもらって『申し訳ない』と思う気持ち」や「お断りすると悪いと感じる気持ち」=『罪悪感』につけ込みます。そして、相手が言いにくそうにしているのを「喜んでくれた」と勘違いし、相手の了解を得ずして勝手に境界線を破って相手のプライベートな心の領域にまで押し入り、相手をコントロールして支配しようとし、自分のエゴを満たす道具として相手を利用するのです。
そして、「嫌なことは嫌だとハッキリ断ると角が立つ」「せっかくの親切を断るのは不躾なことだ」という刷り込みがあると、それらが正しい判断を邪魔してきます。エゴを押しつける相手に対し、ここで正直にはっきりと「自分の気持ち」を伝えることができないと、この関係は不幸なものになり、お互いの人生を悲劇的なものにするのです。
これとは反対に、「自分の意見を一切言わず、黙って人の言いなりになる人」もいますが、それも根っこは同じです。また「犠牲精神で人のために頑張り過ぎてしまう人」も然り・・・。これらは、一見、大人しくて悪い人に見えず、穏やかで優しい「良い人」に見えますが、でも、客観的に見れば、これらもエゴが根っこにあります。
「人に嫌われたくない」「人から好かれたい」「特別な存在だと認めてもらいたい」「愛されたい」「大事にしてほしい」・・・という思いが強く、また、子供時代から我の強い大人の言いなりになって生きてきたことが原因で、自分を押さえ込む癖がついています。また、自分自身「自分は何がしたいのか?」がよく分かっていません。自分のことがよく分からないのです。でも、自分が分からない状態の方が、都合が良いからそうしているのです。自分の自我が表に出てくると、相手に変に思われて嫌われるかもしれない・・・と思うから、今のまま「大人しくて従順な自分」であり続けようとしているのです。つまり、自分の人生を放棄している・・・ということです。
その他、作り笑顔の八方美人で、誰にでも「良い顔」を向けて必死に頑張る人も同様・・・。その他、嫌なら嫌だとお断りすればいいのに、断ることができず、いつも「いいよ」としか言えず、無理して頑張る人も同様・・・。「自分の正直な気持ち」を相手に伝えることが怖くて、人の良いなりになる方が楽で良い・・・と感じてしまうのです。自分に自信がないから、怖くて自分の本当の気持ちをさらけ出すことができません。それは絶対にやってはいけないことだと、自分で自分の心にそう刷り込んでいるため、絶対に「ノー」が言えないのです。自分の本心を相手に伝えることが怖いから、現実から逃げて、自分を誤魔化しているのです。
ここまで、上記に挙げた人々は、みんな「現実の今の自分」を受け入れていません。そして、「自分の今の問題」と向き合うことから逃げて避けています。だから、現実逃避の一つとして、世間から見て「良い人」と評判の人になる・・・ということにセッセと勤しんでいるのです。
自分のことを後回しにして人の世話ばかりを焼いたり、従順な自分であるために自分を放棄したり、自分の気持ちに蓋をして無理して明るく振る舞ったり・・・等、内面(本当の自分)と外面(社会の中の自分)が一致していない状態は、非常にバランスが悪くて不安定な状態です。それなのに、不安定でバランスが悪いことも隠して、無理やり「あの人は良い人だよ」と人から良い評価をもらう方が、「自分の現実と向き合い、自分のバランスの悪さを改善しようと格闘する」ことより簡単で楽だと思っています。また、バランスが悪い状態でも、それを押して「良い人」であり続けることが人として大事であり、それが「わたしの人生」だと思い込んでいます。
世間的に「良い人」であり続けることは、自分のエゴやプライドも適度に満たすことが出来るので、人からの評価を求める人には、とても都合が良いのです。だから「良い人」である自分を手放せず、イメージ通りの自分を続けようと頑張ってしまうのです。
だけど、もう、この昔の価値観で言うところの「良い人」像は、今後は機能しなくなります。それは、ちっとも「良い人」ではない・・・ということです。むしろ、人の人生の足を引っ張ったり邪魔したり、まとわりついて依存してエネルギーを抜き取るだけの足手まといな存在になる・・・ということです。今までは、昔の価値観によって「良い人」だと保証してもらえましたが、これからは、単にエゴを押し通す人たちです。そして、非常にバランスが悪い人たちである・・・ということです。そういう認識になります。褒められることではなく、むしろ煙たがられて嫌がられます。全然「良い人」の部類には入らない・・・ということです。
では、これからは、どういう人が「良い人」になるのでしょう?
それについては、次回、お話しします。