まだまだ先のことだと思っていた東京オリンピック。
いよいよ今日が開会式ですね。
でも、あの一連の騒動&コロナ第5波のせいで、「スポーツの祭典がやってくるぞー!」と盛り上がる感じがなく、また、個人レベルでも浮かれた気分になりにくく…(汗)。
しかし、世間は「4連休」突入で、家族で遊びに出かけている人もいるし、でも一方で、コロナには用心しなきゃいけないし…で、一体どうリアクションして良いのか?…何ともビミョーな雰囲気ですよね。
今朝も「開会式って今日の何時からなのかなぁ?」と夫に聞いても、夫も「えっ?知らない…」と頼りない返答。
今回の4連休も、カレンダーに印刷されていなかったため、最近初めて知ったという状態で(汗)、なんだか万事全てが「中途半端」!…そんな感じです。
いろんなことが中途半端で、中途半端なまま、何が大事なことを見落としたまま見切り発車で進んでいくような感じで、気分がスッキリしなくて、いつもモヤモヤしているのですが、今はそういう時なんだろうなぁ~と割り切るようにしています。
社会や世間が「これが正解」「これが間違い」と提示してくれて、それにただ黙って従っていけば良かった…という時代は終わったということなのでしょう。
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五輪関係者が辞任に追い込まれる騒動でも、彼らを役職から引きずり降ろしたのは、90年代の彼らの産物でした。
あの頃(1990年代)は昭和から平成に時代が変わり、バブル経済とバブル崩壊の両方を体験し、オウム事件があり、大震災も起き、ジェンダーフリー論が突如出てきて、社会が混乱しっぱなしだったんですよね。今まで信じてきたことが「おかしい、間違っている」と断じられ、今まで当たり前だったことが泡のように消えてしまい、何が正しくて、何が間違っているのか?…さっぱり分からなくなってきた…。そんな時代でした。まさに世紀末だったんです。
この頃、私は新社会人となり、忙しすぎる職場に放り込まれ、毎日バタバタしていました。そして結婚。出産。夫の親と同居したので、気を遣うことが多く、仕事と子育てと義父母との付き合いに必死でした。とにかく、自分の時間が全く持てない超ハードな時を生きていました。今振り返ると、自分の若さを無駄に消耗させ、自分のエネルギーを搾取されていくだけの90年代だったなぁ…と思います。
あの時の私は、苦しくて大変な中にいましたが、「今のこの暮らしを我慢して頑張ってやり過ごせば、未来はきっと幸せになれる」と信じていました。
でも、それは、親や社会からの刷り込みでしかありませんでした。
女の子は結婚すれば幸せになれる。
結婚したら、子供を産めば幸せになれる。
子供が生まれたら、子供をちゃんと育てれば幸せになれる。
やがて、親の面倒が必要になったとき、
親の介護を一生懸命にすれば幸せになれる。
嫁として舅姑に尽くせば幸せになれる。
最後は、
家族の世話を頑張れば幸せになれる。
夫に尽くせば幸せになれる。
喜んで家族のために犠牲になれば幸せになれる。
だから、
女には学は要らない。
学歴が高いと嫁の貰い手がいなくなる
頭がいい女は嫌われる。女は男より頭が悪い方がいい。
…云々。
私が生まれ育った昭和の頃は、上記のことを頭から信じ切っている人がほとんどで、私たちは子供のころから「女はこうあるべき」とずっと言われ続けてきたんですよね。
それをしっかり守ることが「幸せ」になる秘訣で、将来が安泰だ…と、みんな真剣に信じていたのです。だから、必死にそう子供に躾けてきたのです。
でも、これって今では女性差別につながるような価値観で、若い人たちは信じられないだろうなぁと思います。だけど、ほんの30~40年前はこれがスタンダードだったんですよ。私が子供だった昭和時代、私の周りは祖父母世代から親世代まで、社会全体がみんなこうした価値観を持っていました。
しかし、あれから四半世紀以上が経ち、もうこうした価値観は機能しない世界になってしまいました。当時は必要なことで固く信じられてきたことであっても、時代の変化と共に、自分の中にある価値観もアップデートさせて、どんどん変えていかなくてはいけないのです。
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話を戻して…。そんな昭和時代でしたが、90年代になったら、先に挙げたように「信じられないこと」が次々と起きて、「こうしておけば安心」「これで未来が安定する」と信じられてきた鉄板の価値観が根底からひっくり返され、ガラガラと崩れていったんですよね。
そのため、みんな自信が無くなってしまい、未来がどうなっていくのか見えなくて不安でした。
不安だったから余計に、みんなが「信じられる強い力」を欲していて、強く意見を言う人や、今までにない新しいことをやる人、大衆を上手にまとめ上げる人にみんな引き寄せられて傾倒し、彼らが言うことを信じて取り込み、それで自分を保とうとしていたんです。
それで、当時は「カリスマ」と言われる人たちがもてはやされ、社会にいろんな影響力を与え、みんなも「強い力を持つ人」の下にいると安心できたのです。
そんな90年代に作られたあの産物…。
五輪の役職の辞退の原因となったあれは、今の感覚では絶対にありえない酷い内容でしたが、当時は、社会の固定観念をぶっ壊してくれるような強いエネルギーを「新しい」ともてはやすところがあったから、認められたい人たちは、倫理観ギリギリのところに自分を置いて、自分の存在価値をアピールしていたんですよね。
そして、そんなギリギリの危なそうなところでも平気でポンと自分を置ける人に、カリスマ性を感じて、みんな引き寄せられていたんです。
要は、力を持っている鈍感な人がカッコよく感じられていたということです。
今(2020年代)の私たちが見れば、明らかに無知さと未熟さがにじみ出ている内容だけど、当時はあれも許されるほど、社会が混乱していて、倫理観や人権感覚も寸断されていて、ちょっと狂乱じみていたなぁ…と思います。
当時は、昭和的な「四角四面な生真面目さ」から抜け出したくて、まじめで誠実であることを馬鹿にしたり、笑い者にして見下す空気もあったし、だから余計に、問題だと感じることがあっても、咎めにくい空気がありました。歯止めが無かったんです。
でも、もしもあの頃、まだ10代~20代だった若い彼らに対して、愛をもって叱責し、彼らの悪ふざけを身を挺して正してくれる大人がいてくれたら、また、その悪ふざけを世に出さないよう食い止めてくれる大人がいてくれたら、今のこの騒動は無かったのではないか…とも思うのです。
そう、誰も教えてくれなかったんですよ。
今は炎上と言う形で自ら知ることができるけど、当時は今以上に、心が痛む現場を目にしても、みんな見て見ぬふりをして、責任逃れしてきたんです。
人として大事なこと、守るべきこと、倫理観、良心…等、そういうことをきちんと教えることに、大人たちはみんな躊躇していたんですよね。
その代わりに、世間体を気にすること、自分たちの保身に必要なこと、刷り込まれてきた価値観は、相手の気持ちも考えず自信をもってガンガンやってこれたのです。
その一方で、人として生きていくうえで大切なことは、みんな自信が無くてきちんと伝えられなかったんです。
そういう非常にアンバランスな時代を、私たちは生きてきた…ということです。
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でも、今回、いろんな騒動が起きて、「今までのようなことは、もう続かない。変えなくてはいけない」ということを、皆が感じ取ったと思います。
「人が教えてくれなかったから、知らずにやってしまった…」というのも、もうこれからは通用しないし、また一方で、「それが本当に相手のためになるのか?否か?を一切考えず、一方的に自分の主張を押し付ける」というのも、今後はNGだと思います。
そうではなくて、自分も相手も、そして世界中のみんなにとっても、安心できて「よかった」と感じるもの…。それを自分の感覚を使って新しく生み出していくことが必要なんですよね。
そのためには、個々の倫理観や人間性、徳分が必要になってきます。
自分で「これでいいのか?」「これでOKなのか?」を、常に自分の中で自問自答しながら、自分のためだけでなく、自分に関わる全ての人の幸せにも繋がっていくことを目指しながら生み出していくのです。
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昔の人は、「お天道様が見ている」とよく言っていました。お天道様(神様)から見られて、恥かしくないか?正しいか?人として間違っていないか?…これらを自分で常に意識しながら生きていくことだと思います。
そういう意味でも、自分の中にある価値観が古くなっていないか?否か?確認しておくことが大事ですね。
なんだか中途半端な毎日で、頭もボーとしていて意識もぼんやりしていますが(笑)、こういうぼやけた時は、自分をしっかり見つめ直して、価値観の棚卸をするにはちょうど良いチャンスなのかもしれません。