私は時々、社会との接点を外して、家の中に引きこもることがあります。
「社会の中で人にもまれる期間」と「籠って一人になる期間」、この両方が程よくないと、私のバランスが崩れてしまうからです。
一人で籠るときの自分は、イメージでは「天岩戸の中に隠れて過ごすアマテラス」になったような気分かな。
何かが気に障ったからとか、アレが嫌だったとか、体調が悪いとか、…云々。そういうわかりやすい理由がある訳ではなくて、ただ純真に「一人になりたい」。ただそれだけなんですよ。
それが良いこととか悪いとか、こうすべき、ああすべき…云々の縛りやジャッジは一切なくて、ただ純真に自分の魂が欲していることなんですよね。
それに今の私は、職場に拘束されているわけでもなく、時間的には自由が効くので、じゃあその自由を上手に利用しよう…という感じ。
「ちょっと一人でいたいなぁ」と感じる場合は、自分でそういう状態であることを自覚して、一人で過ごすことを心がけています。
とはいえ、ずっと引きこもりっぱなしではダメなんですよね。それはそれで、またバランスが悪いんですよ。
なるべく早く浮上する!と意識しつつ(=長い間、一人になって沈み続けるのはまた問題が多いので…)、一人の時は、無理しないように自分ペースを死守して、一人でいる時間を大切にしています。
こうして元気になったら、また社会に出て、人と会い、多くの人と関わり合います。
このメリハリが私には必要なんですよね。
最近はこのルーティーンの繰り返しです。
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私が一人になるのは…多分、エネルギー的なことなんだと思います。
今は特に、社会が不安定だし、過去に振り戻されたり、予期せぬことに遭遇したり、多くの人々が不安な状態にいます。
みんながそれぞれに不安や心配や恐怖を抱えている時。
だから、みんな呼吸をするように、外に向かって、自分の中に溜まったエネルギーを発散していたりします。
「自分は何物にも影響を受けず、常にポジティブに生きているんだ!」と誇示している人であっても、無意識のうちに、集合意識の影響を受けています。
知らないうちに心に傷を負っていたり、感性が曇ってしまっていたり、いろんなものを見聞きしているだけでも、不安や心配や恐怖の感情が心の底に溜まっていくときです。
元気そうな人でも、明るそうな人でも、案外ふたを開けてみれば、結構みんなドロドロなんですよね。
もちろん私自身も…。
そんなご時世なので、社会の中でいつもの慣れた道を歩いていても、ただまっすぐ歩いているだけなのに、遠くから飛んできたものが頭に当たったり、誰かの返り血を浴びたり、変な争いに巻き込まれたり、誰かのエゴの餌食になったり…等々。
(これはイメージですよ笑)毎日事故に遭っているような感じなんですよね。
明るい太陽の下に自分をさらして歩き続けているだけなのに、どんどんいろんなエネルギーが飛んできて、絡みついてきて、巻き込んできて、そういうのを払いのけるのも大変だし、また、きちんと接して対処していくのも大変。
ただ生きているだけでも、ものすごく疲れてしまうのです。
もちろん表向きは、何事も無さそうな涼しい顔をして、明るく受け流したり、爽やかに対応していても、やっぱり疲れちゃうんですよね。
以前の私は、エネルギーが有り余っていたので、いろんな人やモノが絡みついてきても、ふんふんと平気な顔をして通り抜けてこれたし、「私のエネルギー、ご自由にどうぞ」とフリーWi-Fiのように提供してきたけど、今は、もうそういうのがちょっと辛くなってきました。
もしかしたら、昔の私は鈍感だったのかもしれません。だから気づかなかっただけかもしれない。
今は自分が受けたダメージがよくわかります。変なところに力が入っていたり、無理して頑張りすぎていることが、ちゃんと自覚できるようになったんですよね。
でも、自分がわかるようになってきて、同時に、エネルギー的に飢えている人、変化に適応できない人、どう生きていいか分からず混乱している人、等々。迷いを起こしている人が多いってこともわかってきました。
だからこそ、自分らしさを失わないように、自分の時間を大事にしなくては…と思っています。自分の時間は、自分修復の時間でもあります。
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今日も、散歩をしたり、家事をしたり…等々。木々や植物、昆虫など自然とはたっぷり接したけど、人とはほとんど接することなく、静かに過ごしました。
こうして静かに一人でいると、自分の内面の変化(心や体の反応)がよくわかるので面白いです。
「一人の時間=自分を知る時間」という感じ。
天岩戸の中に籠る時間は、「自分発見」のひととき。これからも大切にしていきたいです。
カラスウリが咲いていました。