今年のお盆は、8月11日の「山の日」から、(金)(土)(日)…と週末が続いたので、いつもより長い間、お休みだったような感じがします。
この間に、私もお墓参りをしたり、親戚の家や実家に行ったりして、のんびり過ごしました。
今年のお盆では、「老い」について考えさせられることが多かったです。
やはり、超高齢化社会ということもあり、身近なところでもお年寄りばかりです。
昔、私が子供だった頃は、儒教の教えがまだすごく沁みついていて「お年寄りは長生きして苦労してきた分、人徳があり知恵者だから、若い世代は大事にしなくてはいけない」という価値観が強かったのですが、最近のお年寄りを見ていると、決して人徳者でもなく、知恵者でもなく、みんな「ただの人」だなぁ…と感じるんですよね。
むしろ、今の若い世代より、頭が固くて、プライドが異常に高く、執着心が強かったり…等。また、こだわりが強すぎて融通が利かず、自分が100%正しいと信じていて、絶対に自分を曲げようとせず、自分より若い世代の話は一切聞こうとせず、自分の意見をごり押ししたがる…。とまぁ、こんな感じで、性格的に問題がある「面倒な人」が実は多いんじゃないか…と、そんな気までしてきます。
もちろん、とても素敵な歳のとり方をしていらっしゃる方もいるけど、でも、大半の人は、面倒で厄介な気質を抱えたまま、周囲に迷惑を振りまきながら、頑固に生きている人がほとんどなんじゃないかな。
これは「老人だから」という訳ではなく、みんながそうなんですよね。
世代や性別に関係なく「人間」として生まれてきた以上、みんな多かれ少なかれ、気質的な問題を抱えているし、自分や身近な人の性格や心の癖で「生きにくさ」を感じている人もたくさんいます。そして、大変な中で、喜怒哀楽を感じながら、みんな必死に生きている…という訳です。
だけど、高齢世代の人たちを見ていると、自分のメンタルや霊性なんて全く気にしないで、自分の心や体が感じることを無視して生きてきた世代だと思うのです。
そう、「鈍感な人」が多いんですよ。
物質的な豊かさを享受できれば「幸せ」だと刷り込まれているから、豊かであれば、何も考える必要はない…という感じなんですよね。
特に昭和時代は、むしろ「鈍感な人」である方が価値がある…という感じで、世間並みの生き方ができていれば良し。個人の気持ちや感情なんて無視して、みんなが同じものを持ち、同じ生き方をして、同じことを考え、みんな同じであることが大事だったんです。
こういう世界だと、敏感な人や繊細な人は、周りは自分の繊細さをバカにする人や感性を平気で踏みにじる人ばかりだから、本当に辛くて生きにくいです。
自分を守るために、自分の個性を黒く塗りつぶして、社会が求める人間にならなくてはいけなかったから、やはり、鈍感でデリカシーがない性格でないとやっていけないところがあったと思うのです。
そして今。
多様性の時代と言われているけど、超高齢者の姿を見ていると、それまで自分を律していたタガが外れて、どんどん「素の自分」へと身ぐるみ剝がされているような感じなんですよね。
昔のようにしっかりしなきゃ、がんばらなきゃ…と思ってやればやるほど、第三者から見たら、不自然で、滑稽で、かなり変なんです。
例えば…。
自分の中にも存在しているであろう「多様性」について、全く気付いていないし、本当の自分を知ろうとせず、決められたルーティーンを守ることに必死だったり…。
他者の多様性を一切許さず、理屈と思考で頭がガチガチになっていて、白か黒かで物事を決めたがったり…。
また、自分が若かった頃に自分に課してきたマイ・ルールを、今も完璧に守り通そうと必死になっていたり…。
更には、自分の肉体の衰えに対しても断固として抵抗し続け、プライドの塊になって、柔軟な対応を頑なに拒否していたり…。
などなど。
今、宇宙規模で大変革の時を迎えていますが、この変化の波は、超高齢者も同じなんですよね。
変化や変革は、若い世代のみに与えられているのではなく、100歳を超えた高齢者も同じです。年齢なんて関係なく、また、性別も関係なく、みんな一緒です。
優遇されている世代なんてありません。
むしろ、思考と屁理屈で凝り固まっている頭ガチガチの高齢者ほど、今は、変化のエネルギーの影響を多大に受けているのではないでしょうか。生きている間に少しでも固まって動きのないエネルギーをカチ割って流れをスムーズにしようと、見えない世界の力がどんどん当たられ、ますます意識改革を強いられるんじゃないか…と思います。
意識が新しい時代の価値観にシフトしている人なら、軽々と飛び越えていける小さな試練も、昔の古い思考で固まっていると、全然乗り越えられません。
こうして、飛び越えられないストレスを強力に感じた人たちが、また、声を大にして「妻(夫)のせい」「社会のせい」「国のせい」「家族のせい」「あれのせい」「これのせい」…と文句タラタラで、ネガティブエネルギーを天に向かって吐き出し続けるのでしょうね。
文句を言うことで、自分を正当化させて、自分の人生の責任は一切とらない…という態度を貫くのでしょう。
だけど、この状態を俯瞰して見れば、声は大きくても、結局は一歩も動かず前進せず、そこにずっと留まりつづけるということです。進歩も成長もなく、そのまま一生を終えていく…そんな人生を自分で選んで生きているのです。
このお盆の間、いろんな人に会い、社会を見渡してみたけど、同じところでグルグルと堂々巡りをしている人が多いですね。
信仰をしてても、スピに傾倒していても、どれだけお金をかけたか?なんてことも一切関係なく、グルグルと同じ地点を回り続けているだけで、そこから一歩も出ていない人が多いです。
何かの組織や団体に属しているから、誰かに師事して学んでいるから、それでもう大丈夫だ、自分は進化している…と安心しているのでしょう。
いやいや、そうじゃないんですよね。
あと、自分は年長者だから…とか、長くやっているから…とか、自分は男だから・女だから…とか、こんな立派な肩書をもっているから…とか云々。そういう「くくり」で妙な特権意識を持ち、すっかり安心しきっている人も多いです。
いやいや、それも違います。
どこにいても、誰についていても、そんなものは関係なくて、自分一人になったとき、自分はどこまで「自分を的確に知っているか?」ここが大事なんです。
ブライドやエゴにまみれている自分、変な執着に心がとらわれている頑固な自分、バランスに欠けた自分、自分の問題点、課題、死ぬまでに手放すべきこと…等々。そういうものを客観的にちゃんと自覚していて、自分を知ろうと努力し続けること。また、よりよく生きるよう、自分らしい人生を築く努力をすること。
こんな実践をコツコツ続けていくことが、すごく大事なんですよね。
これを死ぬ間際まで、真摯に取り組み続けることが、私たちの人生の課題なのですよ。
だけど、自分の人生すらよくわからないまま、長いものに巻かれて過ごしてきた人の多いこと…。そんな自分を正当化して、自分の変さには蓋をして無視する人も、また多し…。
しかし、自分の課題に気づかず、自分の変さで、周囲に苦痛を与えたり、また自分自身の首を絞め続ける人がいても、それはそれで私は良いと思うのです。
それも、またその人の人生だもん。
だから、そのままであることを尊重していきたいと思います。
人間って、さんざん苦しんで「大変だ」と自覚しない限り、手放せないんですよね。
抱えたまま苦しむ時間も、その人にとっては必要な時間です。
全ては尊い人生。
そして、この世界は、完璧な人なんて誰一人いなくて、みんなそれぞれに多くの問題や課題を抱えている人しかいない世界。
自分も含めて、どうしようもない人間だかりだから、この世界はとてもユニークで面白くて楽しいんだ…と、そんなことも悟ったのでした。