森の中の大きな木~Let's go to the new stage!~ 

とりあえず今、目の前にあることについて語ろう

自分にもっと目を向ける

 

 

今、世の中は「シリアスに反応する人たち」と「ポジティブに反応する人たち」の二手に分かれつつあると感じます。

 

シリアスに反応する人たちは、どんなこともすぐにネガティブに受け止めて、それを周囲にまき散らし、自分の個人的な主観を他人にグイグイと押し付けてきますよね。

 

この「押しの強すぎるところ」が私の短所。気を付けないといけない…と、自分のことを少しでも自覚していればいいんですが、なかには、全くお構いなしの人もいます。

 

自分の言動が、周囲にどのような影響を及ぼしているか?…なんてことは一切気にせず、自分は100%正しいと信じきっていて、人に自分の主観を押し付けるのです。

 

こういう人は、自分に対してはゆるくて甘いのに、他人に対してはすごく厳しくて、細かいことまで干渉してきます。他人のことまで、口をはさみたがるのです。

 

例えば、自分の身に起きたことなら、事実をしっかり受け止めて、現実的に対応していかなくてはいけないけど、自分の身に起きていないことや赤の他人に起きた出来事まで、まるで自分の身に起きたことのように受け止め、感情移入して、事態を複雑化してしまう。こういう人が結構いるんですよね。

 

こういう人たちが、前向きに取り組もうとしている当事者の足を引っ張り、邪魔をして、人類の進化成長の動きを停滞させ、世の中を暗くしていると思うのです。

 

自分の身に起きていないことは、その当事者に任せて、自分は自分の問題に集中して取り組む。この割り切りが、今はとても大事だと思います。

 

 

 

人に干渉したがる人たちは、みんな口をそろえて「心配だから」と言います。

自分が心配に感じたなら、それを相手に言って、相手の行動を止めないといけない…と信じているのです。

多くの人は、「心配だ」と言えば、何でも許されると思っているみたいですが、それは大きな間違いです。

 

古い価値観に染まっている人たちは特に、「心配」を「愛」だと勘違いしています。

 

でも、「心配」は愛ではなく、自分のエゴが引き起こしていることであり、一種の現実逃避です。

 

相手のことを心配しているのは、愛からではなく、もしも万が一想定外のことが起きた時、自分が怖い思いをするのが嫌だから、それで相手に自分の「不安」をぶつけているのです。

「心配だから」という理由で、相手の決断や行動を阻止しようとしているのです。

 

極端な話、相手のことを愛しているのではなく、単に「これ以上私に不安な思いをさせるな!」と怒りをぶつけているのですよ。

 

心配を抱えている状態は、とてもつらくて苦しいものです。

だから、そんな自分を守るために、矛先が「相手」に向かってしまうのです。

この時、こうした人たちの頭の中は、相手のことを「自分の所有物」と思い込んでいる感じです。自分の延長のような気持ちで見ていて、相手をコントロールしようとするのです。当然、相手の意思や気持ちや人権…なんてものは一切無視です。

 

相手が自分の意に介さない言動をしたとき、相手の様子を見たり聞いたりしていると、どんどん自分の心が落ち着かなくなっていくんですよね。相手から刺激を受けて、自分の心がいろいろ反応しているのを、すごく「心地悪い」と感じています。そのため、気持ちが落ち着かず不安定な自分の心の状態を、とりあえず「心配」とラベルを貼りつけるのですよ。

 

本当は違う感情なのに、自分でうまく判断できなくて、それで世間体に通用する体裁が良いラベル「心配」を、とりあえずペタッと貼っておくわけです。こうして「私は心配しているんだ」と思い込みます。

 

刺激が強ければ強いほど、落ち着かない気持ちはいつまでも続き、ずっと頭の中をいっぱい埋め尽くしていきます。

 

そのうち、どんどん気持ちが不安定になり、つらくて耐えられなくなると、自分の心を落ち着かせるために、矛先を相手に向けて「自分をこれ以上刺激するな。もう動くな。余計なことをするな」と責めたくなります。

この時、怒りを「心配」という言葉で上手に包んで「愛」に見せかけて、ガンガンぶつける…という訳です。

 

昔は、「心配」は「愛」だと信じられてきたけど、実際には「心配」は「愛」ではなく「毒」と同じです。

過剰に人から心配され続け「あれはダメ」「こうしなさい」と過干渉気味にあれこれ言われてきた人が、心明るく幸せになった…なんて話は一度も聞いたことがありません。むしろこの逆で、自信を失い、心が病んでいく人がほとんどだと思います。

 

心配を理由に、自分のシリアスさやネガティブさを人にぶつけ、周囲にばらまく人々は、「自分は社会に毒をまいている」と自覚したほうが良いと思います。

 

 

 

心配性な人たちは、他人をコントロールしようとするのではなく、もっと自分自身に関心を持つことです。

 

人のことは放っておいていいから、まずは自分の心を成長させることに心血を注ぐべきですよ。

 

そもそも、心配性な人たちは「どうして自分はこんなに他人のことを心配して、余計なことを言ってしまうのか?」という点に、もっと意識を向けるべきだし、ここを問題視すべきです。

 

相手が悪いんじゃなくて、これは自分自身の心の問題。

 

自分の気質的な問題に向き合っていると、他人ことを監視して偉そうなことを言ってる暇はなくなりますよ(笑)。

 

自分が抱えている課題は、(誰もがそうですが)かなり膨大で根深いです。生きているうちに全てをクリアしようと思ったら、時間が足りません。だから皆さん、死んで生まれ変わってまた来世で、延々と「自分の課題」に取り組まされているのです。

 

世の中をポジティブに光り輝かせている人たちは、こうした自分の課題や問題に真摯に向き合い、日々コツコツと取り組んでいる人たちです。

 

完璧さとか成熟度なんて関係なく、ただ「自分の課題に真摯に向き合い、日々取り組んでいる」これだけで尊いです。

 

この自分磨きによって生まれるエネルギーが、人々を導き、人々に勇気と励ましを与え、社会を明るく照らしていくのです。

毎日着々と前進していくその姿が、自分の足元を照らし、周囲を照らします。

 

このささやかな光に触れて、影響を受けて感化した人々が、新たに目覚め、自分の人生を生きる覚悟を持つのです。

 

ちなみに「心配」を理由に他人の足を引っ張る人々は、尊い光の受け渡しを邪魔する人々です。

 

自分はどっち側に立つのか?

 

この点について、多くの人々が自覚し、明るい光の生き方へと舵を切ってほしいなぁ…と、そう切に思います。

 

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今月は、noteの「クリエイターフェスティバル」に参加したくて、毎日note更新にチャレンジしています。

というのも、10月中は、31日間毎日投稿すると、抽選でプレゼントがもらえるみたいで、そのプレゼント欲しさに物欲にかられてホイホイ…と(汗)。根が単純なので、もしかしたら当たるかしら?と、ついつい頑張っちゃうんですよね。

 

ということで、もしよかったら、私のnoteを覗いてみてくださいませ。

https://note.com/emiemibrightness

こちらのはてなブログとはまた違った雰囲気で書いています。

 

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赤く染まった夕焼雲