森の中の大きな木2~Let's go to the new stage!~ 

とりあえず今、目の前にあることについて語ろう

カラダが教えてくれること

12月に入って以降、先週まで順調に過ごせていたのですが、クリスマス寒波が到来したあたりから、いつものリズムがドドッと崩れてしまい、今は体調不調の真っただ中です。

 

体調が不調だと、メンタルも調子悪くなりますね。

カラダのダルさに比例して、やる気も気力も全然出てきません。

 

そんな中でも、やらなきゃいけないことは、なんとか頑張って取り組み、それ以外のフリーの時間は、グッタリ横になって過ごしました。

 

年齢的にも「無理は禁物だなあ…」と感じる今日この頃。

 

若い頃に身につけた生活習慣やルーティンは、若いカラダには合っていたかもしれないけど、今の年齢のカラダには「無理」ということが多々あります。

 

なので、歳と共にちょっと見直してみて、いったん手放してみることも必要ですね。

今までは「これでOK」と思っていたことも、カラダや気持ちの変化から、今まで通り継続していくことが困難だ…という場合もありますから。

 

これからは「今の自分」に合ったスタイルを模索して、削る所は削ったり、必要なことは必要な分をつけ足して、どんどん作り変えていくことが大切だなぁ…と思いました。

 

 

この体調不良の中に、実は「胃の不調」もあります。

 

昨日から食欲がなくなり、今日もほどんど食べませんでした。

食べなくてもいられるくらい、ちょっと弱っている感じです。

 

胃が不調だと、カラダ全体もいつもと違ってどこか変だし、調子が振るいませんね。

 

胃の不調については、食べ方や食べ物の質を変えていく必要性をすごく感じていますが、それとは別に、日々のストレスを受け止めてくれているのは胃の辺りではないか?それで胃の不調が現れているのではないか?…なんてことも感じています。

 

そうなんです。私は、まだ幼い子供時代から、結構ストレスに晒されてきたのですが、何かストレスを感じる度に、胃の辺り(みぞおち)がギューと締め付けられて萎縮するような感覚があるんですよね。

 

私の場合は、「痛み」というより「不快感」が強いです。胃の辺りがギューとなり、どんよりと重苦しくなっていくのです。もっと小さかった頃には、お腹を壊すことも多々ありました。

 

だけど、こんな状態が幼少期から今日まで何十年と、あまりに長くあり続けたために、自分でも全く自覚ができないくらい感覚がマヒしていました。

 

人間は良くも悪くも、その状況に慣れてしまったり、適応してしまうので、カラダは苦しみを感じていても、心がそれを無視し続けたら「なかったことにする」ようです。

 

だから、心が「嫌だなぁ~」と感じた時、カラダもそれに合わせてこんなふうに反応していただなんて…。お恥ずかしいことにほとんど自覚なく過ごしてきました。

 

 

世間では「我慢強い」と言われている人がたくさんいるけど、こうした我慢強い人たちとは、もしかしたら、カラダの反応を無視するスキルが高いのかもしれません。

 

カラダは、自分の気持ちに寄り添うように、様々な反応をしてくれているのに(←固くなって強張ったり、痛みや熱を発したり、ギューと締め付けられる感じがしたり、だるくて動きたくなかったり、重苦しい感じがしたり…等々)、ところが人間は、カラダの反応を完全に無視して、他人から指示された通りにロボットのように動かなくてはいけない…と頑張ってきたと思うのです。

 

そして、カラダの反応を無視したり、コントロールしたりして、カラダの声に鈍感な人たちのことを「我慢強い人」と呼んで、昔の人は褒め称えていたんですよね。

 

自分のカラダは純真で素直で愛にあふれているから、自分の心と深く結びつき、私たちの心の感覚を代弁してくれるのだと思います。

 

心がマヒして感じなくなっても、カラダは律儀に感じたことを反応に出して、私たちに一生懸命教えてくれていたのかもしれません。

 

 

私も長い間、自分のカラダの感覚にすごく鈍感でした。、

ですので、私がみぞおちの辺りの違和感や重苦しさ、ギューと締め付けられるような不快感を自覚したのは、今年になってからです。

「あっ!私、こんなに緊張している!」とはっきり気づけたのは、本当に最近のことなのですよ。

 

ある時、「あぁ嫌だなぁ…」と素直に自分の感覚を認めた時、みぞおちの辺りがドスンと重苦しくなり、ビンビンと緊張していることに、ハッと気づいたのです。

 

 

みぞおちの不快感は、そのままストレートに受け取ったら「痛み」に変わるようなドス黒い感じのもので、大きなストレスを感じました。

 

このみぞおちがギューギューする感覚…。これは、違った受け取り方をすれば「怖い」という感情そのものなんですよね。つまり「恐怖」なのですよ。ストレスの元になる存在に遭遇すると、みぞおちがキューと苦しく感じるところから、そのうち、ストレスの元となるモノに対しても「怖さ」を感じるようになりました。

 

要は、カラダは、反応を通して「危ない、気をつけろ!」と私たちに教えてくれたのかもしれません。

 

ここで、ふと思い出したのは、(これは日本特有の昭和的文化かもしれませんが)、「嫌い」「嫌だ」と感じてはいけない、「嫌だ」「嫌いだ」と認めてもいけない、それを軽々しく口に出してもいけない…と、私たちは幼少期から徹底的に躾けられてきたということです。

 

「嫌なもの」「嫌なこと」に対して蓋をする文化なのでしょうね。そのため、「嫌だと感じてはいけない」「間違っている」と、学校や家庭や地域の大人たちから、ずいぶん言われてきましたよね。

 

本来は、「好き」も「嫌い」も同じ単なる気持ちでしかなく、どっちが正しいとか間違っているなんてことも一切ないのに、大人が勝手に「好き」は良いこと・「嫌い」はダメなことだ…とジャッジしたのでしょう。

 

「嫌い」は決して悪いことではなく、人てある以上、みんな多かれ少なかれ持っている感情です。

 

なのに「嫌い」は一切認めない…というのは、非常にバランスが悪いです。

 

思うことは自由なのに、何故か他者から制限が課せられるんですよね。

 

しかし、心で「嫌だ」と感じたことと、カラダが「嫌だ」と反応したこと。その二つをもって、「私はこれが嫌いなんだな」と素直に自覚すればいいだけの話なのに、親や大人たちから「嫌ってはいけません」「嫌がってはいけません」と教えられるため、「嫌だと」と感じることに罪悪感を覚えてしまうのです。

 

しかも、少しでも「嫌だ」「嫌い」と口に出すと、大人たちは怪訝な顔をして「それはわがままだ」とか「人のことを嫌うのは、悪い子の証だ」と言って、厳しく叱られる…。好き嫌いは個人の心の中のことで、本来は自由であるべきなのに、人の心の中まで入り込んで統制しようとするわけです。

 

とまぁ、こんな変なやり取りが、子どもを相手に繰り広げられていたわけですよ。

 

特に、世間体を気にする人や、完璧主義の人、人から「いい人」と褒められたい欲求が強い人ほど、「嫌い」「嫌だ」を怖がって封印しようとしますよね。

自分の中に「嫌だ」「嫌い」があることを絶対に認めたくないし、こんなものを抱えている自分は、人として失格だとも思い込んでいます。

 

それで、厳しく自分を律してしまうし、自分の身近な人にも「ダメ」と禁止しようとするのですよ。

 

そういった価値観を、物心つく前から刷り込まれて、こう生きなくてはいけなとガチガチに刷り込まれてきた人は、自分の心の中から、「嫌だ」「嫌いだ」を追い出して模範的に生きようとします。

 

自分が感じること全てに対して「これは正しい、これはダメ」とジャッジし、「ダメ」認定した感情や気持ちは、なかったことにして消去しようと、頭が勝手に働くのでしょうね。

 

しかし、カラダは正直で素直だから、心が感じたことを、カラダでもちゃんと反応してみせて、私たちに「本当の気持ち」を教えてくれるのです。

 

無視されても、いつも誠実に感じたまま反応してくれるカラダ…。愛しくなりますね。

 

そう考えると、私の今の胃の不快感は、今まで感じ続けてきた「不快感」の堆積が、今になってドドド…と出てきたのかもしれないなぁ…と思ったのでした。

 

そこで、心の中で「過去の記憶、刷り込まれた恐怖、昔の感覚…すべてを手放します」と宣言しています。

 

しっかり受け止めたうえで、「手放す」と決めたら、気持ちが楽になりました。

そして、みぞおちの辺りも、スッと軽くなっていくのを感じました。

 

カラダは本当に素直ですね。

このカラダを一生愛しんで大事にしていきたいと思いました。

 

雪がたくさん降りました