森の中の大きな木2

自由にマイペースに生きたい 「自分らしく生きる」ための心のメッセージ

「複雑な自分」のままでいいんだよ~私の心のつぶやき~

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先日、自分の複雑さについて少し書いたのだけど、

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その後、自分の気持ちを改めて見つめ直してみました。

 

 以下、完全なる「ひとりごと」です。

自分のための忘備録。

 ◇◇◇

 今までの私は、複雑である自分のことを「ダメな存在」だと思い込んでいました。

 親からの刷り込み&地域の価値観の影響なんだと思います。

 まぁ、それでも「自己肯定感」を高めるための取り組みをコツコツやってきて、自分なりに日々努力を重ねてきました。結果、以前よりかは随分とマシになったと思います。

昔と比べたら、自分に自信が持てるようになったし、「自分らしく」を大切にできるようになったんだけど、でも、「最後の決定打」というか「最後の一押し」…のようなものがまだ足りなくて、それが一体何なのか?…でつまづいていました。

この「最後の扉」がわからなくて、同じところをぐるぐる回り続け、ちょっと停滞していたのです。

でも、昨夜、お風呂に入っているときに、ハッと気づきました。

最後の一押し…。最終的な局面での「自己肯定」がまだなされていなかったんです。

それに昨夜、突然「あっ!」と気が付きました。

さてさて、それはいったい何だったのか?…といいますと、これ↓です。

 私は複雑なままで良いんだよ。

 そう、無理して「複雑さ」を自分の中から消さなくてもよかったんです。

複雑なままでよかった…のですよ。

 

◇◇◇ 

 

私はずっと「複雑なままではだめだ」と思い込んでいました。

複雑だと付き合いにくくて面倒だから、無理してでも「単純な自分にならなくてはいけない」と思い込んでいました。

心根までごっそり変えることてはとうてい無理なので、そんな簡単には「単純な人間」には決してなれませんが、それでも「単純な人のように見せる」ための努力、これは必要不可欠だと思い込んでいました。日ごろから「単純な人間に見せるための努力」は嫌でもしなくてはいけない…。そう信じていたのです。

だから、腹の中は複雑で混乱しているのに、表向きは誰からも「単純明快な人」に見えるよう、一生懸命、頑張り続けて生きてきました。

これは、子供のころから意識して取り組んできたことです(保育園児くらいから)。

単純でアホな人にならないと、人から煙たがられて嫌われる…。そう思い込んでいました。

これは間違いなく実母の影響なんですが(汗)、複雑な私を母がものすごく嫌っていたのを幼心に察知して、それで親から大事に扱われ愛されるために、子供なりに工夫して知恵を絞り、必死になって「自分の複雑さを打ち消して、親が喜ぶ単純でアホな子になろう」と頑張ってきたのです。

でも、今になって振り返ると、本当の自分を隠して「違う自分」を演出しながら生きていくことは本当につらいことです。

自分の生きづらさの原因は何だったのだろう?と考えたとき、今までの私ならば「自分の複雑さ」が全ての悪の原因だと即決で答えを出していただろうと思います。

自分の個性である「複雑さ」を悪者扱いして心から嫌っていたので、その反動で、自分のなかの複雑さを打ち消して単純な自分になろう…と、今まで長い間ずっと頑張り続けてきたわけです。

 

◇◇◇

 

しかし、昨夜、私は、「自分の複雑さが原因なんじゃない。自分の複雑さを受け入れられず、単純な自分になろうと無理してきたことが、本当の生きづらさの原因だったんだ」…と気づきました。

 自分の中に、「複雑さ」を嫌う気持ちと「単純さ」を追い求める気持ち、これらの相反する両極端の気持ちが存在するから、だから心の中で矛盾を抱えることとなり、葛藤が起きて、自分が2つに引き裂かれ、それでずっと苦しかったんだなぁ…と感じました。そうなんです。

最初から「単純」になんか、なれっこなかったんですよ。

なのに、単純になろうとして、一生懸命に無理して自分らしくないことをやってきたわけです。

つまり、分かりやすく例えると、本当は隠しようのない短足なのに、足を長く見せようとシークレットブーツを履いたり、足の長さを胡麻化したりして、「足の長い自分」を演出しようと苦労して必死に頑張ってきた…ということです。

現実の足の長さが、隠しようのない「短足」ならば、「私は短足です」と正直にさらけ出して、隠さず短足をオープンにすれば良かったんですよ(笑)。

それなら、無駄な時間とエネルギーを使うことなく、自分自身も気楽に自由に居られます。もう隠す必要はないから精神的にも楽だと思うのです…。

 でも、私は、短足なままだと人から嫌われる、これでは醜くくてかっこ悪い…と思い込んでいて、必死になって短足であることを打ち消し、足の長い人になろうと無駄に頑張りすぎていた…というわけです。不自然極まりないことをやっていた…ということです。なんとまぁ~(汗)。

それに、今、気づきました。

「あっ、そういうことやったんか~」と今更ながら納得しました。

 

◇◇◇ 

 

(以下、私の心の声)

そうだ。

別に、自分の複雑さを隠す必要もないし、単純な人間になろうと無理して頑張る必要もなかったんだ…。

自分の本来の素の状態は「複雑な自分」なんだから、複雑な自分のままで人と接してもいいんじゃない?。

ていうか、そもそも「自分の複雑さ」って、そんなに悪くて酷くてダメなものだろうか?

私の複雑さに毎日付き合ってくれている夫は、私の複雑さに振り回されながらも、私から刺激をうけてすっかり変わってきたし、今ではすっかりいい感じの明るいオジサンになっている。毎日楽しそう…。義母もそうだ。

そう思うと、私の複雑さは決して人を不幸にしていない。

 ならば自分のこの複雑さを隠す必要はないんじゃないかな…。

 無理して「単純な自分」を作って演出していたときより、開き直って「複雑な自分」を発揮して生きている今の方が、私も周囲も生き生きして楽しくなっている…。

 それなら素直に自分のこのキャラを受け入れて、素直に自分の本当の姿を認めてあげても良いんじゃないの?

第一、人って、みんな、それぞれに「複雑なもの」を抱えて生きているんじゃないのかな?私だけではない。みんな複雑なんだよ。

 単純な人もいるけど、それは無理して単純に見せているのではなく、最初から単純なキャラで生まれ落ちた人だから、私たちが複雑なのと同じ…ってこと。

だから、複雑なことを恥じる必要もないし、複雑さを忌み嫌う必要もない。別に誇りに感じる必要もないけど(笑)、ここは単純に「私は複雑な人間です」と公に認めてもいいんじゃないかな。

複雑な自分を受け入れて受容し、これも自分なんだ!と、自分の複雑さに市民権を与えてもいいんじゃないの。

拒否してきたし嫌悪してきたけど、いやいや「複雑な自分」も自分の一部分なんだと素直に愛着を感じてあげてもOKなんじゃない…?

こんなに長年「単純な自分」になろうと努力してきたけど、結局、無理だったんだもん(笑)。もう、そろそろ諦めて(笑)、「複雑な自分」を引き受けて共存共栄で生きていく覚悟を持とうよ。

もう50になるんだもん。

「自分の複雑さ」をそろそろ肯定的に認めてあげてもいいんじゃないかな…。

素直に自分を受け入れて、「複雑な自分」キャラで楽しく自分らしく生きていきたいよね…。そうしたいよね。

 (以上、心の声)

…と思ったのでした。

 そういう思いに至ったら、なんだか頭がすっきりして、心もスッと楽になりました。

余計な力が抜けて、元の自分に戻ったような気がします(笑)。

 

◇◇◇

 

複雑な自分のままで良かったのです。

本来の自分は「複雑」なんだもん。無理して変える必要なんてなかったんですよ。

 そして、自分は「複雑である」ということを素直に認めて、複雑な自分を隠さずオープンにしていくこと。オープンにする=日陰から日なたに出していく…ということ。

 これが本当の愛だったんだなぁ…。自分のことを素直に受け入れて受容する…この受容される心地よさを自分でまずは体験することが「最後の扉」だったんだなぁ…と思いました。

そんな大事なことに、今ようやく気づくことができたのでした。

 

※この気づき、皆さんにシェアしますね。