塩浄化を始めてから10日以上がたった昨日(新月の日に)、私は自分が新しく生まれ変わる体験をしました。
それは、ひょんなことから始まりました。
この日、プライベートで、私が人から軽く見られて蔑(ないがし)ろにされる場面があり、その時、強い「怒り」を感じたのです。
お仕事中などオフィシャルな場面ではあまりないのですが、プライベートで素の自分に戻ると、とたんに自分に自信がなくなり、ヘナチョコの私になってしまうのです。
例えば…。
今までの私は、人から蔑(ないがし)ろにされても、バカにされて嫌なことを言われても、見下されて無視されても、「相手は未熟な人なんだから仕方がない。私が辛抱してスルーすれば良いだけのこと。ケンカして同じ度胸に立つなんて、かえってみっともない…」と思い、黙って受け流してきました。
そして、私自身、自分で自分のことを卑下していた部分があり(自己肯定感が低かったのです)、「私は、そんな大事にされるような価値のある人間ではないから、軽く扱われても仕方がない…。失礼な態度で接してこられても、こんな私だから仕方がないんだ…」と受け入れる。そんな自分だったのです。
相手を持ち上げてあげれば、相手はご機嫌な状態でいてくれるし、その方が話がスムーズに進んで楽なので、私の気持ちや感情は無視して、とにかく相手の調子に合わせるのが癖になっていました。
せっかく相手が気持ちよくいてくれるのに、そこで私か流れを断ち切って、私の気持ちを主張し出したら、相手はきっと不快になるだろうし、どんどん話がこじれて面倒な結果になるかもしれない。それならば、最初から私が折れて、相手の気持ちに寄り添って合わせてあげたほうが楽でいい。私は我慢強い人間だから、私が我慢すればいいのだ…と思っていました。
これが「賢い大人の対応」だとずっと信じていました。
◇◇◇
でも、昨日の私は違いました。
相手の言動を目の前にして、「えっ?なんで?それって酷くない?」と感じ、急にムカムカと怒りが沸いてきました。
最後は「お前、何様?」
…と、ほぼマジ切れ状態でした(汗)。
一度堰を切ったら、どんどん怒りが沸き上がり、無意識のうちに口からバーンと怒りを発したのです。
相手は、私の変容ぶりにビックリしていました。
この時の私は、怒りが頂点に達していたけど、脳は何故か?とてもクリアで、自分が何故怒っているのか?をガンガン説明しながら火炎を吐きました(汗)。
それにしても…。
こんなに腹が立ったのは本当に久しぶりです。
ガチで怒りまくりましたよ―(-_-;)。
怒りながら、ふと冷静に「首の浄化をしてきたから、喉のチャクラが開いたんだ」と思いました。
(過去世の分も含めると)、私は長いこと自分の感情を抑圧してきました。
特に、宗教を信仰していると(宗教あるあるですよ・笑)、「怒りを面に出してはいけない」という教えがあったりすると、ついつい「怒り」をため込む癖がついてしまうのです。 本当の教義での「怒り」の扱い方は、上記↑とは違うのですが、勘違いを起こしている未熟な指導者の下で修行していると、その指導者の勝手な解釈による「教え」を刷り込まれるため、「怒り」の定義が本来の正しい認識とはかけ離れたものにすり替わってしまうのです。
本来は、怒りを感じることは別に悪いことでもないし、間違ったことでもありません。
人間が怒るのは自然現象であり生理現象です。
そして「怒り」は本能的に自分を守るシステムであり、自分の「嫌い」や「危険」を知るセンサーでもあります。
だから、「怒り」を上手に生かして自分を守り、自分の本当の気持ちを知る手がかりとして役立てれば良いのです。
でも、未熟な指導者は、頭から「怒り」をダメなことして決めつけています。
そして、「怒り」なんて感情が最初から全く無いのが「人として立派な姿」であり、それを目指すことが人としての目標なのだ…と教え込むわけです。
でも、怒りも人間の感情の一つであり、人として生きていく以上、「怒り」を全く感じないで暮らしていくことは難しいだろう…と思います。
とはいえ、たとえば心の修行によって、「怒り」の沸点が高くなり、些細なことなら別に腹を立てることなく、穏やかに生きていけるようになる…ということは多々あります。自分の「嫌なこと」や「危険」を察知できるようになれば、「怒り」を感じる前に上手に対処できます。
でも、自分の命が脅かされたり、自分の尊厳を傷つけたときは、「怒る」ことは必要だと私は思います。自分が酷い扱いを受けているのに、それを受容していつまでもヘラヘラしているのは絶対に変ですよ(汗)。←これってかなり心が歪んでいます。
「怒り」を感じたことを合図に、自分のために立ち上がり、自分を傷つける相手と正々堂々と闘うことも、時と場合によってはとても必要なことです。
だから、怒りを無視してはいけません。
怒りも感情の一つとして、大事に取り扱わなくてはいけません。
つまり、「怒り」を完全否定してしまうことが問題であり、「怒り」を感じることは人ならば必ず起きる「当たり前のこと」であり、自分の「怒り」を無視しないで自分の心でちゃんと感じて受け止めてあげることがとても大事なのだ…ということです。
◇◇◇
しかし、「怒り」はダメなことだと思い込み、「怒り」を感じる自分を否定して、怒りを無視してただ腹にため込むだけの人が、その癖を慢性化させてしまうと、自分のハートのアンテナが錆びついていき、自分の気持ちが感じられなくなってしまいます。
そして、自分の感情を感じて、自分の気持ちを人に伝えることもできなくなっていきます。自分の怒りだけでなく、相手の怒りにも過敏に反応し、相手の怒りを引き出さないように、相手の顔色を伺い気を使ってしまう「卑屈な人間」になってしまうのです。
DVやハラスメントや共依存は、こうした心理↑が働きやすい人間関係のなかで起きやすいです。
本当は怒る場面なのに「怒りの感情」を飲み込んでしまったり、出さずに自分に我慢を強いたり、物解りのいい「良い人」を演じてしまったり…等々。これらは、本当にNGなことです。
自分が「怒り」を感じているのなら、その「怒り」をしっかり受け止めて消化してあげることが大切です。
◇◇◇
ちなみに私は、長いこと、こんな状態↑でした。だから、喉に問題があったし、問題があったから発せられなかったのです。
言いたいことも言えず、飲み込んできたツケが喉や首元に溜まっていたのです。
10年くらい前から、私は自分の心と向き合うようになり、だいぶ自分自身と繋がってきましたが、喉のチャクラはまだ詰まったままだったみたいです。
ところが、 ここ最近の塩浄化で、首元の不浄がとれて赤みや湿疹が落ち着いてきたら、今まで長年にわたって蓄積されてきた喉のつまりが取れて、「ハートから生まれた正直でクリアな本当の気持ち」がザーザーと流れ出てきました。
まず最初に出てきた気持ちが、
私はあなたのサンドバッグやゴミ箱ではない!
ということ(-_-;)。
相手の言動、受容なんてしません。
全面ブロックしました。
そして、
それ、あなたのミスが原因でしょ?
私は悪くない。
何で私に責任を擦り付けるんだ?
甘ったれるなよ。
…と。
その後、ジワジワ〜と以下の気持ちが出てきました。
ああ~、私は私のことをちゃんと見てほしかったのだ。認めてほしかったんだ。
私のことを大事に扱い、尊重してほしかったのだ。
もうこれ以上、他人の奴隷になるのは嫌だ。
どんな相手とでも、私は平等でありたかったのだ。
そして何より、
好きな相手だからこそ、私の話をしっかり聞いてほしいし、私のことを立ててほしかったんだ…。
…と強く感じました。
と同時に、「これが自分を尊重する」ということなのだな…と思いました。
◇◇◇
ガ~!と怒って相手に伝えたら、相手は「ごめんなさい💦」と素直に謝ってくれました。
私が真剣に怒ったことで、相手はハッと気づいてくれたようでした。
その後、仲直りできました ^_^。
◇◇◇
もう私は、自分を粗末に扱いません。
また、私を粗末に扱うことも絶対に許しません。
私を粗末に扱わないでください。
私を大事に扱ってください。私を尊重してください。
…これは、相手だけでなく、私自身にもいえることです。
ああ~これを実感するために、私は長いこと、自分を傷つけながら、彷徨(さまよ)い歩いてきたんだなぁ…と思いました。
この体験のあと、それより前の私の感覚が、すっかり記憶から飛んで消えて無くなってしまいました。
自分を粗末に扱っていたときの自分の感覚が、すっかり消えてしまい、以前のネガティブな気持ちがサッパリ分からなくなっていたのです。
自分でもこの変容にビックリしました。
新しく生まれ変わった気分。不思議な気持ちです。
今回、素直な気持ちを吐露できてよかった・・・と思いました。
今ようやく喉が貫通し、頭部と胴体がようやく繋がった感じがします。
(↑すごい表現( ̄▽ ̄;)・・・汗。今までは一体何だったんだ!笑)
こうして私は新月の日に、また一つ殻を破って生まれ変わったのでした。