森の中の大きな木~Let's go to the new stage!~ 

とりあえず今、目の前にあることについて語ろう

思い込みを捨てて、自由になろう

自分ではあまり意識していなくても、実は自分の意識の中に様々な「思い込み」や「刷り込み」があって、いつもそれらに縛られている…ということが多々あります。

 

最近、この「刷り込み」がかなり根深い所にまで食い込んでいて、自分の意識と同化していることに気づいて「これはヤバいぞ〜」と感じたのでした。

 

例えば、以前の私は「冷えは万病のもと」というのが刷り込まれていて、確かにカラダを冷やすことは健康上よくないことだけど、必要以上に「冷え」を恐れていて、絶対に冷えを感じないよう、真夏でもしっかり着こんでいたんですよね。

 

外は猛暑で暑くても、屋内に入ると冷房で体が冷えるから…ということで、冷気に肌が触れないようにとガードしまくっていたんです。

 

だけど、よくよく考えたら、これって「思考」ですよ。思考でカラダをコントロールしてたってことです。

 

カラダが「暑い」と感じたのなら、涼しくなるようにすればいいんでし、「寒い」と感じたら、温かくなるように調節してあげればいい。

 

その場その場で適切に対応してあげればいいだけのことなのに、以前の私は、その時発するカラダからの声を素直に聞かず、最初からしっかり着こむという形で「冷え対策をしています」とキメてたんですよね。

 

カラダが暑い寒いと訴える前から、これでいきます!と完全防備していた…ということです。

 

これってよくよく考えたら、カラダに無理強いさせてるのと同じですよ。

だって、今は暑いのに「後で暑くなるかもしれないから、この状態で一日頑張りなさい」と押し付けてるようなもんです。

 

 

しかし、「冷えは万病のもと」が刷り込まれてしまうと、過去に冷えが原因でお腹が痛くなるという体験があったりすると、刷り込みと体験がガッチリ合わさって、更に刷り込みが強化されるんですね。

 

カラダ、心どちらにしても「痛み」は、トラウマになりますね汗。

「もう二度とあんな痛い思いはしたくない!」と思うから、必死になって予防策に突っ走るという訳です。

 

痛みは恐怖を生み出します。

だから、自己防衛で痛みの記憶が薄らぐのだけど、その時に感じた恐怖はいつまでも思考に刻み込まれ、私達の行動に制限をかけるのだと思うのです。

 

 

とまあ、こんなことを考えつつ、自分の周囲を見渡すと、刷り込みに支配されている人が多いことに気づきます。

 

成績、学歴、職種、収入、肩書、結婚、容姿、健康、性別、…等々。

 

上に挙げた項目については特に「こうあるべき」「こうすべき」という刷り込みが多いし強いですよね。

 

例えば、家庭内でも、上に挙げた項目で「いい」「悪い」と家族をジャッジして、「こうしなさい」「こうあるべき」と意見することが多いじゃないですか。

 

抵抗する者がいれば、これをやらないと「バチが当たって不幸になる」「後で苦しむことになる」という呪いをかけたり等、相手を怖がらせて恐怖を植え付ける形で、みんな刷り込みますよね。

 

こんなことを、私たち人間は、遥か昔からずっと繰り返しやってきた訳ですよ。

 

親から子へ、子から孫へと、脈々と受け継がれてきた刷り込みもたくさんあります。

 

だけど、もうこうした刷り込みは捨てなきゃいけません。そのタイミングなんだなぁ…と感じています。

 

 

 

例えば、子どもが「これをやりたい」と言った時、大人はいろんな理由をつけて、それをやめさせようとします。

 

また、「子どもにこんなことはさせたくない」と言って、子どもが受け取るべきものを大人が奪い取ってしまうこともあります。

 

この時、大人がよく言うセリフの中に「あなたのことを心配している」「あなたには苦労をさせたくない」というのがありますが、これも「心配は愛」という間違った刷り込みから来ているんですよね。

 

心配は愛じゃありません。

心配している時、人は相手に感情移入しています。相手の人生に介入して干渉し邪魔をしているのですよ。

 

もしかしたら、その子どもは天から「苦労」を授けられ、それを体験することが使命かもしれません。

 

ところが、それを見た大人が可哀想だと感じて、手を貸してあげたくなるでしょうが、もしかしたら、その子は「苦労」だとは思っていなくて、遊びのように嬉々として楽しみながら取り組むかもしれないのです。

 

相手が自分より年齢が若いと、相手を未熟者扱いし、やたらと世話を焼きたがる人がいますよね。

 

これも「自分より年齢が下の人は、自分より未熟である」「年下の者の世話を焼いてあげなくてはいけない」という刷り込みによるものです。

 

また、大人が「私はそれを苦手で苦痛と感じた過去があるから、きっとこの子も苦手で苦痛に感じるにちがいない」と思うことも、刷り込みです。

 

親の自分が子どものことを全て決めて良いんだ…と思っているとしたら、ひどい勘違いですよ。

 

子どもの意向を確認せず、子どもから取り上げてしまう行為。これは天が子供に与えたギフトを親が奪い取っている…ということなんですよね。

 

「自分がそうだから人も同じだ」と決めつけるのは、ある意味「傲慢さ」です。

また、「親(年長者)だから何をしても良いんだ」というのも、傲慢さ。

 

親の務めは、子どもにちゃんと体験させてあげることです。

失敗も挫折も苦労も、ちゃんと本人に体験させて、しっかり乗り越えられるよう見守り見届けてあげることです。

 

親子関係についても、いろんな刷り込みがあって、その刷り込みのせいでトラブルが起きたり、関係にひびが入ったり、こじれたり、断絶や不信の原因になっています。

 

まぁ、こうしたトラブルもまた、成長の糧になるので必要なことなんですけどね。

 

すべてのことが魂の進化のもとになるし、人生には無駄がないと言いますが、それでも、刷り込みが強すぎると、行動に制限がかかったり、判断ミスを犯しやすいので、刷り込みはどんどん外して自由になることが大事だと思います。


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紫陽花が咲きました。