他人の姿や様子を見聞きして、「可哀想に…」と同情したり、相手の気持ちになって一緒に傷ついたり、助けてあげなくてはと世話を焼こうとしたり、やたらと感情的な反応をしたり・・・等、そんな風に、他人のことを我がことのように感じてしまう人たちのことを、多くの人は「愛」とか「思いやり」とか「優しさ」だと思っていますが、いえいえいえいえ・・・それは違います。
それは単なる感情移入。感情移入して、自分の主観を押しつけているだけ。
一緒になって苦しんであげることで、その状況にますます「ネガティブなエネルギー」を付け足してあげて拡散しているだけです。
これ、やられた側からすると、ものすごく迷惑な行為・・・なんです。
相手がどんな体験をしようと、それはその人の体験であり、この人生に必要だから、その体験を与えられている…。それだけのことなんですよね。
だから、相手の様子を見て、自分の心が揺さぶられたとしても、その揺れた感情を相手にぶつけて押しつけるのは、愛でも思いやりでもありません。
単なる自己中です。
大変な体験をしている人は、自分に与えられたその体験をしっかり受け止めて、その状況を乗り越えなければいけません。
この「乗り越えるまでの過程」が、それを体験している人にとって必要な経験なんです。その経験を通して、人として成長することになっているのです。
だから、他人の体験は、誰も代わってあげられません。もしも、ここで誰かが身代わりになり、人の体験を背負うことをしたら、それは他人の人生体験を奪って盗んだことになります。人の大切な体験を取り上げて自分のものにしてしまった・・・ということです。
体験は、天から与えられた宿題みたいなものだから、それを他人が代わりにやってあげたんでは、力がつかないし、いつまで経っても成長しないです。
体験を通して、人は心の器を大きくして成長していくので、人から体験を取り上げて奪い取ったら、奪われた人は全く成長しなくなる・・・という訳です。
(相手が子供であっても、その子の成長のためにちゃんと体験させてあげてください。)
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でも・・・、悲しいかな、世の中には、身代りになってあげたり、背負ってあげたり、やってあげたり、犠牲になってあげることが、「愛の証」だと信じ込んでいる人が多くいます。
みんな、いつも他人のことばかり気にしていて、常に人の言動を観察し、気になるとじっと執着して粘着し、人の体験を奪い、また、自分も自分がすべき体験を他人に奪われて、略奪し合って生きています。
そして、自分が勝手に人から奪って起きながら「(私が)やってあげたのに・・」「(私が)助けてあげたんだから・・・」と人に恩に着せて「見返り」を求めたり、また、人から世話を焼かれたことに後ろめたさを感じて「やってもらったのだから・・・」「助けてもらったから・・・」と罪悪感に縛られたり・・・等。
特に、日本は、義理人情を全面に押し出して、感情的な関わり方で人をコントロールし、刷り込まれた価値観で人を縛って、いつまでもズルズルと繋がり続けるような人間関係がまだ色濃く残っているので、本当に大変です。自分のことは後回しにして、いつも人のことばかり気にして人の世話ばかり焼いている・・・・・そういう人が多いように思います。
自分らしさよりも世間体を重んじる家で生まれ育てば、当然、こういう関係が「当たり前」だと刷り込まれるので、そういうタイプの人たちは一向に減ることなく増殖していくわけです。
一つの文化システムとして、こうして感情的に縛り合う人間関係が、先祖代々、脈々と次世代へ継承されているのでしょう。
否応なしに、親から子へ、子から孫へ・・・。
つまり私たち人間は、人に干渉し感情的に縛り合う関係を、何千年も延々と継承し続けてきた訳です。
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生まれ変わっても生まれ変わっても、また同じように「他人の体験を奪って、他人の代わりに自分がやってあげることで、自己満足する」ということを飽きることなく繰り返してきたため、何も疑問に感じず、「自分が奪われてきたから、自分も他人の体験を奪う」・・・この繰り返しの中で、私たちは生きています。
その一番いい例が、「親が子供の体験を奪う」というものだと思います。
あれこれお節介で世話を焼き、本当なら子供がするべき体験を、全部、親が奪ってやってあげるパターン。
子どもに与えるべき「必要な体験」には、良いことや楽しいことだけではなく、失敗や苦労、苦難や試練、挫折や危険も含まれます。
こうした失敗体験や挫折体験は、心の成長に欠くことができない大切な栄養素なのに、親の中には、子供にこうしたことを体験させるのを極端に恐れ、遠ざけようと躍起になる人もいます。
失敗しないように、挫折しないように、苦労しないように・・・と、子供が何かをする前に、親が手出しして全部やってあげたり、始末してあげたり・・・。万が一、子が失敗したときは、子供に「失敗を挽回する方法」を体験させて学ばせる絶好のチャンスなのに、親が勝手に手出しして穏便に片付けてしまったり・・・。
こうして子供から貴重な成長の機会を奪い、それを「親の愛」だと勘違いしているのです。
でも、これは「愛」ではなくて「親のエゴ」なんですよね・・・。
子どもには苦労させたくないから…ではなく、自分が子供のことで心を痛めたり不安に陥るのが耐えられず嫌だから、それで事前に(自分が安心できる状態になるように)親の判断で全部決めてしまい、子供が失敗する前にやってしまう。←ただそれだけです。
こんなの愛でも何でもないです。 自分のエゴを押しつけているだけ・・・。自分が不安にならないために、また、親としての自分の評価を下げないため、自分の保身のために子供を利用しているのです。
こんな状態では、子供はいつまで経っても社会的に自立できません。親から体験を奪われ続けているため、体験不足に陥って、自分で人生を切り開くことがでなくなります。挫折にも弱く、失敗しても挽回する方法を知らず、決断力も身に付かず、この社会でたくましく生き抜く力がないまま、社会に無責任に放り出されるのです。
◇◇◇
じゃあ、本当の「愛の証」とは何でしょう?
私は相手を信頼することだと思います。
相手が、子どもというだけでなく、仕事の部下でも、後輩でも、生徒でも、その対象が誰であっても当てはまることですが、
相手が試練にぶち当たって苦しんでいても、「きっと、この人ならこの試練を乗り越えられる、きっとこの体験を通して大きく成長する」と信じて見守ること
このスタンスを持ち続けること・・・です。
このスタンスを保ちながら、必要に応じてアドバイスをしたり、励ましたり、陰で支えたりすることです。
要は、相手が乗り越え成長していくことを心から信じる・・・ということです。
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ですので、私たちが心がけるべきことは、乗り越える体験を当人から奪わないということです。フォローしてあげても、ちゃんと当人が行動して対処して体験していくことを尊重してあげてください。
試練の真っ最中の人を黙って見守り続けることは、とても忍耐と根気が要ることです。
自分に対して辛抱強さも必要です。相手はその体験が必要だから与えられている。そう思って、相手がそこから抜け出し乗り越え、大きく成長していくことを心から信じてあげてください。
信じて任せることです。
そして、自分は「代わってあげられない」ことをしっかり認識して割り切り、心のなかで応援すること、これしか出来ない…ということを悟ってください。
自分は「陰ながら応援するという体験」を与えられている・・・ということに、早く気づいてください。
これは「相手を信じる」という修行。
信じて任せること。
感情移入するのは、相手のことを信頼していないことの表れです。
ならば、「人の成長を信じてあげられない自分の心」を何とかしなくてはいけません。
他人のことより、自分の心の成長に意識を向けてくださいね。
本の紹介
今回は、家族関係にまつわる本&自分の感情を見つめるのに適した本をご紹介します。
『お母さん、年末、実家に帰らなければダメですか?』
☆この季節、実家に帰省するのが辛い人へ。物語風に構成されている本で、主人公の心の動きに合わせて「自分の心とどう向き合い、どう対処するとよいのか」が書かれてあります。
『子供の脳を傷つける親たち』
☆新刊ですが、元教師の私からも是非お勧めしたい良書です。子供の脳を育むことの重要性と大切さが学べます。
『怒らないこと』
Kindle版↓
出版本↓
☆少し古い本ですが、とてもわかりやすくて親しみやすい内容です。「怒り」という感情の本質を初期仏教の分析で説明されています。自己分析の手助けになる本です。この本で私は人間の感情について深く学びました。