昨日、知人とお話していて、ふと
これからの人生、自分が楽しめることだけ、やっていこう。
と思いました。
自分たちの周囲の人たちを見ていて、そんな思いが急に沸き上がって来たんですよね…。
この時、知人とは、私たちの周囲にいる「ご年配の女性達」のことを語っていました。
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今、少子高齢化のあおりを受けて、私たちの周りには70代~90代の高齢者が多いのですが、その中でも、昔から良妻賢母と言われて「女性の鏡」と称されたような方々が、次々と認知症になり、症状が悪化するにしたがって、「私の家に帰る」と家を飛び出して徘徊したり、それまで家族に対して暴君で支配的だった旦那さんに対して暴言を吐いたり噛みついたり…云々。そんな姿を目にしたり、そんな噂話を耳にするようになりました。
そして、こうした現象を見聞きした時、私は「認知症になったおかげで、理性のタガが外れて、ようやく正直に自分の本心を表にむき出せるようになったのではないか?」と感じたんですよね。
認知症になったから…というより、もしかしたら、自分を抑え込んで自我を消してまで家族に尽くそうとしてきたストレスが、この病気の発症につながったのかもしれません。
どちらにせよ、認知症にならなければ、自分の本当の思いすら吐き出せなかったということです。そう考えると、とても切なくて悲しくなります。
つまり、これって「我慢の上では、自分はおろか家族の誰も幸せになれない」ということでもあります。
…とまぁ、昨日は、自然の流れで上記のようなことが話題となり、私たちは「今が大事よ!人が何といおうと自分を大事にしなくちゃ!我慢や無理は絶対にしちゃいけないのよね~」と語り合ったのでした。
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家のため、家族のため、親のため、子供のため、夫のため…と、我慢に我慢を重ね、どんなに夫から酷いことを言われてもニコニコと笑顔で返してジッと耐え、良い人・素敵な奥さん・良い嫁・立派な賢婦人…として頑張ってきた女性たち。
そんな人生の大先輩である彼女たちが、人生の末期に「認知症」を得ることで、ようやく自由に外を歩き回り、夫に反抗して言いたかったことを吐き出し、家事もできなくなって何もせず、夫に自分の世話や家のことをさせているのです。
夫たちは「困った」「大変だ」と言っていますが、でも、彼女たちの今までの苦労を想うと、これでちょうどバランスが取れているのではないか?…と、(不謹慎ですが)そんなことを感じてしまいます。
…とまぁ、そんな状態の老夫婦世帯が、私が知っているところで何軒かあって、なんとも切ない気持ちになっていました。
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「幸せな人生」って何だろう?
…と考えた時、そういえば、昔の古い世代(昭和時代の価値観)の人たちは、よく「我慢に我慢を重ねて辛抱した先に、幸せな老後が待っている」と言っていたなぁ…と思い出しました。
私が知っているその高齢世帯の人たちも、まさにその感覚と価値観のまま、実直に真面目に生きてきた人たちだと思います。
彼らの価値観は、「若い頃や現役の時は、楽しみや贅沢など一切せず、とにかく辛抱して我慢して苦労するべきだ。苦労して苦しんだ分だけ、後にたくさん幸せが待っている」という感覚なんですよね。
おそらく、戦争や戦後の貧しい時代を体験するなかで、否が応でも「我慢」「辛抱」「苦労」の人生を通らなくてはいけなかったから、それで、自分の心を傷つけないために、「贅沢や楽しみは敵だ」という感覚に染まってしまったのかもしれません。
特に生真面目で四角四面な人ほど、世間体を気にして、人から咎められたり非難されないように…と、一生懸命、体裁をつくろうところがあります。
「男らしさ」や「女らしさ」と言った性別役割にも厳しい世代だから、余計に、世間の常識からはみ出ないように、自分の気持ちを押し殺して「いい人」であろうと頑張り過ぎてきたのだうろ…と思います。
でも、その結果、老化で身体の機能が衰え、自由が利かなくなって初めて、ようやく病を発端に「自分の本当の気持ち」が、体を突き破って表に出てきた…という状況になったのでしょう。
本当は、もっと若くて元気なうちに「自分の本当の気持ち」に気づいて、自分に正直に生きるべきだったのでしょうが、それよりも「世間体」や「社会の常識」の方が強くて、縛られてきたのだと思います。
結果、「自分の本当の気持ち」を、心の奥深くに閉じ込めてカギをかけ、その代わりに、世間が求める「いい人(良妻賢母」」の仮面をかぶって生きてきた…ということなのでしょうね。
◇
そんな周りの人々のことを考えていたら、
私は、自分の気持ちに正直に生きたい
…と強く思いました。
そして、そこから、
これからの人生、自分が楽しめることだけ、やっていこう。
…と感じたのです。
自分の人生なんだもの。自分を誰かの奴隷や犠牲にするのではなく、
自分の気持ちに正直に生きて、精一杯「人生」を楽しむことで、悔いのない一生にしたい
と思いました。
世間体や社会の常識に縛られて、表向きの「幸せのかたち」を作ろうとするのではなく、本当は、個々が「自分の楽しみや喜び」を素直に感じながら生きていくことが大事だったのです。
そんな誰かの我慢や犠牲の上に成り立っているような「幸せ」は、本当の幸せではありません。そして、そんな誰かの犠牲の上にに成り立っているような「見せかけだけの幸せ」を、家族の幸せだと信じて、家族の誰かに犠牲役を負わせるようなシステムは、もう手放さなくてはいけません。
もちろん、人生は良いことばかりではなく、大変な時や苦労多い時期も当然あります。
でも、そんな大変な時に、互いに協力し合って苦労を分かち合い、共に乗り越えていく相手であることが「真のパートナー」ではないかな…と思います。
そんなことを、身近な老夫婦の姿を通して、いろいろ考えたのでした。